同潤会アパートとは
戦前の東京に生まれた、日本最先端の集合住宅。「48型」誕生の背景にある存在です。
戦前の東京に生まれた、日本最先端の集合住宅。
関東大震災から生まれた住まい。
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災は、木造家屋が密集していた東京・横浜の市街地に甚大な被害をもたらしました。
この復興支援のために、国内外から寄せられた義援金をもとに1924年(大正13年)に設立されたのが、財団法人同潤会です。同潤会の主要事業のひとつが、耐震・耐火性に優れた鉄筋コンクリート造アパートメントの建設でした。
1924年から1933年までの約9年間で、東京・横浜の各地に合計15〜16か所、約2,500戸の集合住宅が建てられました。
電気・ガス・水洗トイレ。当時最先端の設備。
同潤会アパートのほとんどには、電気・都市ガス・水洗式トイレなど、当時としては極めて先進的な設備が備えられていました。
共同浴場や共同炊事場、集会所といった共用施設も充実しており、明治以降急速に進んだ西洋化と、日本古来の暮らし方との融合を模索しながら、都市での新しい生活のかたちを提案する存在でした。
中産階級(給料生活者)向けの、当時としては最先端の文化的な賃貸住宅団地。それが同潤会アパートの立ち位置でした。
代表格「代官山アパート」。
同潤会が手がけたアパートの中でも代表的な存在が、東京・代官山に建てられた代官山アパートメントです。
既存の市街地ではなく、南向きの傾斜地という敷地条件を活かした、田園都市のような住宅団地として設計された、同潤会のアパートの中でも珍しい存在でした。
その後、周辺エリアの再開発が進む中で解体が始まり、跡地は現在の代官山アドレスへと姿を変えています。一部の建物は東京都八王子市のUR都市機構技術研究所内に移築され、「集合住宅歴史館」として今も公開されています。
すべてが姿を消した、それでも残る設計の記憶。
同潤会は1941年(昭和16年)、業務を住宅営団へ引き継ぐかたちで解散しました。
その後、老朽化や戦災の被害もあり、1980年代以降、同潤会アパートの再開発・解体が進みます。保存や再生を求める運動も各地で起こりましたが、2013年(平成25年)の上野下アパート解体をもって、16か所すべての同潤会アパートが姿を消しました。
建物そのものはなくなっても、その設計思想は消えていません。
受け継がれた間取り、長崎で今も。
戦後、住宅不足に苦しむ日本で最初に建てられた公営RC造集合住宅が、1947年(昭和22年)の都営高輪アパートです。その住戸構成には、同潤会が手がけた代官山アパートと共通する点が見られるとされています。
翌1948年、この設計を改良したものが、戦後初期の公営住宅設計の試行の中で生まれた「48型」と呼ばれる型式です。長崎市の旧魚の町団地(現・魚ん町+)は、この48型で建てられた建物のひとつです。48型の現存状況については、資料や調査時点によって数え方に差がありますが、現存例は全国でもごくわずかとされています。
戦前のRC集合住宅に見られた住戸構成や設備との共通点を、戦後の48型にも見いだすことができます。retro48長崎に泊まることは、東京ではもう体験できなくなった、戦前から戦後へと続く集合住宅の暮らしの一端に触れる時間でもあります。